◎信心の迷いにほおかぶりをしてはいけない。一心不乱になるために、目当てをはっきりと、小さな信心から大きな信心へ。信心の握りどころ。より本当を求めること。
%1御理解小冊子名「おかげの泉」
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昭和四十五年二月十五日 朝の御理解
X御理解第二十五節「信心は大きな信心がよい。迷ひ信心ではいかぬ。一心と定めい」
大きな信心をさせて頂いて、大きなおかげを頂こうと、よく、そういう風に申します。大きな受けものをもって、大きなおかげの受けられる事は間違いない。受けものが小さいのではお話しになりませんからね。
大きな信心とは、どういうような事を大きな信心というのだろうかと、また、迷い信心ではいかぬと、迷い信心とはどんな事かと思います。なかなか、それが分かったようで分かりません。
%Vお互い、だんだん信心を進めて参りますと、やはり五里霧中と、何が何やら分からんというような時期がございます。いわゆる大きな迷いが起きてくる訳ですけれども、迷うという事は、いよいよ本当な事が分からせてもらえれる前提なのですねえ。迷いがあるから、信心をするのである。問題は迷うておる事をほおかぶりしておってはいけないという事です。迷うておっても、それをそのまま放っておいてはいけない。いかにも迷うていないような、いかにも分かっておるような、それがいけない訳です。
%V迷うておる事、それは、やはり真に助かりたいと思うところから、迷いも言わば起きてくる訳です。その迷いを、迷うたままにしておく事がいけない。信心が分からなくなったと、そこんところを、また求めて参りますという事が大事だと思います。
普通、お願いをする、そのお願いが成就すると、また御教が有り難いという時には、迷いはないのです。けれども頂く御教が有り難くなくなってくる。または、思うようなおかげが表れてこないどころか、反対に、思うておるおかげの反対の事になっていると、そういうような時に、普通一般、迷うという訳ですねえ。そして場合によったら迷ったまま信心をやめる人もあるし、または信心を変えていく人すらも、やはりあります。
%V私共がそういう事で迷う場合もあるし、また信心上に迷いを起こす事もあります。そこで、私共が、信心をさせて頂く者がです。迷わずに一心に、いわゆる一心不乱に進んでいけれる、そういうような信心、そういう目当てをはっきり致しますと、その為に小さな信心ではいけん、大きな信心をせよという事になる訳です。
言うなら、目先目先のおかげを信心と思うてやっておる、だから行き詰まる。思うようにならんと、それが迷いが起こる。そこで、その大きな信心をさせて頂いたら、行き詰まりはないと、迷いも起こらない。ですからその大きな信心の目当てができるまでが、やはり信心だと思う、という事になる。
御理解第二十二節を、ひとつ見て頂きたい。
「天地金乃神と言へば天地一目に覧ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けやうと思へば、まゝよと言ふ心を出さねばおかげは受けられぬ。まゝよとは、死んでもまゝよの事ぞ」
%U%V天地金乃神は天地を一目に覧ておると、しかも神は平等におかげを授けてくださってあると、ですからおかげは絶対のもの。ただこちらのおかげの受け物がないから、受け物が悪いから漏るのだというようにです。例えばそれを分からせてもらい、信じられたら、大体、迷いが起こらないと思う。そこで、どういう事になるかというと、そんならその受け物とはどういう事かと。
%V人間の浅い、または小さい考えでうんぬんするという事は、これはいよいよ浅い、小さい受け物という事になりますから、どうでも私は十二分の徳を受けようと思えばままよという心を出さねばおかげは受けられん。ままよとは死んでもままよの事というような信心。言わば本当に迷いが起きない信心とは、やはりお徳を受けなければならん。ですから信心が、やはりおかげを受けるという事は、お徳を受けるという事だと分からせて頂く、悟らせて頂く信心。そういう信心から、いわゆる神様は平等におかげを下さってある、そのおかげを、受け漏らす事のないおかげになったくると思うのです。やっぱここんところが、なかなか難しいですねえ。
お徳を受けるという事が、迷わんで済むおかげの受けられる信心という事になりますが、そのおかげを受けるという事がです、お徳を受けるという事が中々難しい。
%1今度月々に、御理解を研究会で研修したのを小冊子として出すようになりましたが、その表紙を「朝の教話」と書いてありましたから、それでは、あんまり弱いから何かよい言葉を、この表紙に書きたいからというて、お願いに来ました。まあいろいろ言いよりましたが、私は「おかげの泉」と書いてやりました。
%1確かに、御教はおげの泉です。限りがない、汲めども尽きぬおかげが頂けるというのです。ですから、誰でもおかげを求めてない者は有りません。只、初めから教話とか書いたんじゃ、又堅苦しい説教を読まなならんと、もうそこに読みたくもない気が致します。
%1けれども、おかげというと、それに皆が飛びつく。だから、おかげの頂けれるお話、しかも限りなく頂けれるお話が、これには書いてあるという感じを皆に与えると、皆が読むだろうと言うので、おかげの泉という風に書きました。
%V第一、御理解を頂き行ずる事がおげの源泉である事を、信ずる迄が信心というてもいい訳なんですねえ。
先日、十三日会の時、久富博通君が発表しておりましたように、今こうして、一生懸命教会修行させて頂いておるが、おかげを頂きたいという訳じゃないのです。本当に神様が信じたいと、本当に神様を信ずる力を頂きたい、その為には、様々な修行もいといませんというのである。
ですから、私共の信心がですねえ、そういう処に焦点が置かれますと、大体間違いがないようですねえ。おかげを頂きたいから信心しとるというのではなくて、神様を本当に信じたい。けれども信じられないというところに迷いが有る。だから、その迷いを突破すると言うか、その迷いが無くなる事の為に修行しておるとこう言うのである。
これなんかは、正面から信心にぶつかっておる訳なんですけれども、信心すればおかげが受けられると、だから信心すると言うのですから、自分がおかげと思えば続くけれど、おかげと思わなかったら、信心が消えてなくなって、又は、いわゆる信心が細々としたものに、止めはきらんで続いておるという事になってしまいますから、やはり神様を信ずる事の出来れる、信じれれる為に勉強する、又は修行する。又は御理解を拝聴すると、そういう生き方、それもです、一生懸命修行もしてみたけれど、お話も頂いてみたけれど、どうもはっきり神様がつかめない、信じられないという人もやっぱりあるかもしれません。
%Vこれは、とうてい私たちじゃ駄目だというような人達も、やっぱり真剣に取り組んでおりながら、それが中途半端になる人もやはり有ります。信心のいよいよ深さ、信心のいよいよ広さ、その深い、いわば広い信心をさせて頂く。大きな信心には迷いが起こらない。
ですから、その大きな信心の元になります神を、信ずるという事がです、只、何とはなしに、いい信心をしておるという人も有ります。どうでもこうでも、おかげを受けなければならんというて、一心にお参りをするという人もあります。様々ありますけれども、迷いが起こらんで済む信心にならなきゃいけません。
こうして御理解を頂いておりますと、今日のようにスラスラと御理解が頂けません。そうすると、皆さんが一生懸命所々のお話しの中からでも、どこを頂くべきかと、どういう風に頂いたらよいかという頂きどころというものを、心で思われる、頂きどころというものを探される。そしてここだという所を、つかもうと精進をされる。私は信心はそこだと思うんです。
%Vいわゆる、本当のにぎりどころというか、つかみどころというか、信心の本当のそのつかみどころを、つかませて頂かなければ大きな信心にも、又は迷わんで済む信心にもなれない。ですから、それを何時も求める心。例えば、今日の御理解の頂きどころ、しかももうお道の信心はこれはというものをです、握る迄の信心を本当に頂きたい。そこから、迷いの起こらん信心が頂けてくる。
%V信心はこれだと、だからこの、これだというものをです。頂く為に信心をする。これだというものを握らせて頂く為に信心をする。そして、これだと思うておった信心がですよ、例えば迷いが起きたり、行き詰まったりするようでしたら、まあだ、本当なものを握っていないんだと、ひとつ悟らないけません。
%V頂きどころというものを、ひとつ、しっかり頂いていかなければなりません。いつも心にそれを求めての信心。ですから、それがいよいよ本当でない場合はです、やはり迷いが起こってくる。行き詰まる訳です。そん時には、自分の信心が小さいなあと、まだ本当なものを握ってないなあと悟らせて頂いてです。より本当なものを握らせて頂こうとする精進、今日のような御理解を皆さんが頂いておられますと、御理解頂きながらです、先生は大体何を言おうとしておられるだろうか、今日はどこを頂いたらいいのだろうかという風に、心に感じられるだろう。
そういう心を、いつも持つ事だということです。ただ、あんまり、それこそ水が流れるようなお話を頂いて、ああ、そうどころじゃない、有り難かったと言うて帰る。だからちゃんと流れてしまう。ただ、ポツンポツンとでもよいから自分の心の中に頂きどころというものをしっかり把握して、例えば今日なら今日の御理解の頂きどころというものを、しっかりつかんで帰らしてもらう。
それによっておかげも頂いていこう、信心も進めて行こう。それでもやはり迷いが起こって来る。行き詰まる時に、まあだ、もっと本当なものがあるのだと・・・。
もう信心はこれだという風にですねえ、決めてしまって、それから一歩も出ようとしない人がある。それではね、やっぱり十年一日のごとしであって、おかげも変わりばえが致しません。合楽で皆さんが言われるのは、言わば毎朝お参りをして、こうしてお話しを頂いておる。そのテンポの早さに目をまわす程にあるという訳です。という事はです。いつもその動いておるという事、いつも本当から本当を求め続けておるということ。だから今日の御理解でおかげを受けられんという事はないのです。やっぱりおかげ受けてゆけれる。ですから、その時その時の頂きどころというものをです。心にいつも探し求めておるという信心。そういう、私は心の状態を頂いて、いよいよこれだと思うものを、しっかり握って信心させてもらう。そこに私は、確信が生まれてくると思う。絶対というような確信が生まれてくる。
その確信を持って進んでおってもです。又そんなら、行き詰まったと致します。又舞い戻ったと致します。そん時には、又、より本当の事を分からせて頂こうとする。本当なものに握り変えていく。そうしながら、いよいよ間違いのない、狂いのない信心を頂けるのじゃないだろうか。
例えて申しますと、最近私が和賀心時代といったような事を申します。だから、和賀心を求めていく事が信心だと。これなら、もう絶対間違いがない、狂いが無いのですけれども、それはあまりにも高度だという事。
そんなら一月中、私共が和賀心にならしてもらう努力をしても、必ずその和賀心というのは、そう何時もかつも頂くもんじゃない。時々、これが和賀心かと思う位な事。
%Vですから、もし迷いが起こった時にはです、ははあ、自分が和賀心でないから、こんな迷いが起こるんだという事では、あまりにも、漠然としてまいりますから、ですから日々ですね、これだと思うものを本気で把握して、それによって、和賀心に近づいてゆく。だから大体は焦点は、そこに置かれればです、もう絶対間違いが無い。
%Vけれども、そこ迄に行く迄にです。私共は、言うなら迷い信心を続けるとでも申しましょうか。自分のおかげを受けておる、これでおかげを受けられると確信する。それでも尚且つ、又迷いが起こってくる。いわゆる、壁にぶつかると、こう言うのである。時には、だから、自分の握っておったものが本当のものでなかったと、分からせてもろうて、次のものを求めていく。そういう中から、私はいよいよ和賀心に近づいてゆけれる信心が頂けると思いますね。。どうぞ。